LOGIN「うん。体のほうは異常なさそうですね」
「田代先生……本当にありがとうございました。それと、流産の診断を受けたときは取り乱してしまってすみません」
入院して一夜が明け、田代の最後の回診を受けた珠希は、病床に腰を下ろしたまま深く頭を下げた。
乾の商売敵であるはずの氷室が仕切る病院だというのに、ここのスタッフは終始、珠希に温かく接してくれている。
「気にする必要はないです。今は自分自身を労わってあげてください」
田代のやさしい声が、珠希の胸の奥に染み込んでいく。
ふと窓の外へ目を向けると、淡い綿雲がいくつも空に浮かび、静かに流れている。直人もきっと、この同じ空の下にいるはずだ……それでも、彼の心はもうここにはない。
どうすれば自分を労われるのか、珠希にはその答えが見つけられずにいた。
「それと、これは氷室さんに頼まれた伝言です。今日の十一時、大学近くのユイット珈琲で待っている――だそうです」
+ + +
ユイット珈琲――ずいぶん懐かしい店の名前を思い出させられた。
通っていた神本芸術大学の裏門を出てすぐ。蜂蜜の入ったロイヤルミルクティーが看板メニューで、素朴な純喫茶だが珠希はその店が好きだった。
雪臣が珠希に何の用があるのかは分からない。けれど、時計を見ると時刻は十時を過ぎていて、今から向かえばまだ間に合う――そんな考えが、気づけば胸の奥で芽生えていた。
今、ひとりでいるのが怖かったのだ。誰でもいい、ただこの流産という深い喪失感を、ほんの少しでも紛らわせてくれる存在が欲しかったのかもしれない。
退院手続き中、スマホどころか手持ちが千円しかないことを思い出した珠希だったが、支払いの必要はないと告げられ、目を丸くする。
「お支払いの件でしたら、すでに話は済んでおりますので。……氷室さんから」
退院後の書類を渡しながら言ってきた受付の女性の言葉に、珠希の動きが止まった。
――どうなっているの。雪臣くんが、なんでそこまで……。
「それから、別件になりますが……東京国際記念病院から、お急ぎのご連絡が入っています。珠希さんへお電話が繋がらないと……」
「えっ……?」
「先方がご主人へも何度かご連絡されたそうですが、『氷室メディカルセンターへ伝えておいてくれ』とお話があったそうで……」
珠希の鼓動が一つ跳ね上がる。体の末端から、さっと血の気が引いていくのを感じた。
東京国際記念病院――五年前、火災により重度の火傷を負った母親が、現在も回復期として入院を続けている病院だった。
まさか、母の身になにかあったのだろうか。
「電話をお借りしてもいいですか」
「もちろんです。こちらへどうぞ」
受付の女性が差し出した受話器と記念病院の電話番号が記されたメモを、珠希は震える手で受け取った。呼び出し音が一度鳴るごとに、胸の奥が強く締めつけられていく。
『はい、東京国際記念病院、リハビリテーション科です』
「あの、白輪珠美の娘です。ご連絡をいただいていたと聞いて――」
珠希が名乗ると、電話はすぐに看護師のもとへ引き継がれた。
『あぁ、珠希さん。ようやく連絡がついて安心しました』
電話口に出た看護師の声には、明らかな緊張が滲んでいた。
「留守にしていまして、すみません。……母に、なにかあったんですか」
『それが……昨夜、お母さんが病室でパニック症状を起こされまして……その際に転倒し、右足を骨折されまして……誠に申し訳ございません……』
「骨折?」
視界が大きく揺れた。珠希は受付台へ手をつき、辛うじてその場に立ち続ける。
五年前の火災以来、母は炎や煙を連想させるものをきっかけに、度々パニック症状を起こしていた。最近は落ち着いていると聞いていたのに。
「母は、今どうしているんですか」
『処置は済んでいます。ただ、しばらくは安静が必要でして……』
その言葉に、珠希は僅かに息を吐いた。
しかしその直後、看護師が言いにくそうに一度声を詰まらせた。
『それと、お話ししなければならないことが……あの、お母さんの入院費のお支払いが、三か月分滞っておりまして……』
飲み込めない言葉に、頭の中が白くなっていく。
「え? そ、そんなはずありません! 母の治療費は、毎月きちんと支払っているはずです」
『会計課によるとこちらでは、四月からご入金が確認できておりません。これまでも何度か、ご主人へご連絡を差し上げていたのですが……』
珠希は受話器を握りしめた。
母の治療費は、珠希がINUI Jewelryで得る会社の分配金から支払うことになっていた。
珠希自身が手続きをすると申し出たこともある。だが直人は、妻が金のことに口を出すなと言い、すべて自分に任せるよう求めた。
だから、信じていたのに。少なくとも母の治療に関することだけは、約束を守ってくれているのだと。
「……っ、すぐに主人へ確認します。母のところへも、これから向かいますので――」
電話を切ると、珠希はそのまま直人の電話番号を押した。
番号は覚えている。何度も、何度も、彼が帰らない夜に電話をかけては、スマホの画面に浮かぶその数字の並びをずっと見つめていたからだ。
数回の呼び出し音のあと、ひどく不機嫌そうな声が返ってくる。
『誰だ』
「直人さん……」
『んだよ、珠希、お前か。話すことなんてない。切るぞ』
「待って! お母さんの入院費が、三か月も払われていないって……」
『はぁ? ……あぁ! ははっ。忙しくてな。そういや、払ってないかもな』
生唾を飲み込む珠希とは対照的に、電話の向こうの直人の声は軽かった。
直人が、そうだ、と何か思いついたかのように言い、話を続ける。
『その金、払ってほしいなら今から記念病院へ来い』
「どういうこと?」
『離婚協議書を用意してある。署名すれば、滞納分を払ってやる』
――まさか、お母さんの治療費を条件にするの……?
『俺も暇じゃない。切るぞ』
一方的に通話が途切れる。
珠希は受話器を台において、受付近くの時計を見た。
――十時三十分。
「…………」
退院の書類を握りしめ、珠希は足早にその場を後にする。
+ + +
記念病院で面会受付を済ませ、母の病室へ向かう。
母の姿を見ると、珠希の目じりに涙が滲んだ。母の右足は固定され、鎮静剤が効いているのか眠っていた。
……話したいことがたくさんある。その衝動をこらえて病室を出ると、通りすがりの看護師に、「ご主人が面談室で待っている」と告げられた。
面談室のドアの錆びた蝶番が、軋んだ音を立てた。
部屋の中で、ソファーにふんぞり返るように座っていた直人。彼のパイソン柄のスーツが真っ先に目に飛び込んできた。
「俺より後にくるなんて、偉くなったつもりか。珠希」
珠希の顔を見ることすらせず、スマホの画面に向かって言った直人に、心の内側からひっかき傷を残されたような感覚が走る。
彼から感じる圧力に、珠希は、なにも言葉を発することができないでいた。
テーブルの上のボストンバッグを、直人が顎で示した。「これはお前の荷物だ。お前の痕跡があるとルリカが嫌がるからな。持ってきてやっただけ有難いと思え」そう吐き捨てると、彼は離婚協議書をテーブルの上へ投げるように滑らせた。その隣には、見覚えのある藤色のストールが入った紙袋が置かれている。
「そっちは母さんからだ。『下品で目障りだから返して来い』だと」
ストールは、冷房が苦手な義母のため、珠希が肌触りのよい糸を選んで編んで母の日に贈ったものだった。
珠希は唇を噛みしめ、突きつけられた協議書へ視線を落とした。
『桃沢ルリカへの加害行為を理由とする懲戒解雇処分に異議を申し立てず、在職中に手がけてきたすべてのデザインについて、今後一切の権利を主張しない』そこに並んでいたあまりにも身勝手な条件に、息が浅くなっていく。到底、受け入れられる内容ではなかった。
「こんなの……私が作ったものまで、全部奪うつもりなの」
「当たり前だ。会社の仕事として描いたものは会社の財産。それにお前の後釜なら、いくらでも……」
「署名しなかったらどうするつもり」
「当然、記念病院の滞納分は払わない」
ここに名前を書いた瞬間、積み重ねてきたものは珠希の手を離れてしまう。乾家のことだ、この先ジュエリー業界で生きる道さえ閉ざしてくるに違いない。
「体の傷は治っても、心の方はそう簡単に治らねぇ。これからもお前の母親は今回みたいなパニックを起こす。お前は、自分の母親の治療と、自分の都合と、どっちをとるんだ?」
珠希は右手の薬指にはめたビーズの指輪へ視線を落とした。
――ほら、珠希。見て。雪の結晶の形。ビーズで作ったの。これ、指輪にしてあげよっか。
母子家庭で、ずっと母と二人きり。決して裕福ではなかった。
子どものうち、レジャーにも行ったことはない。それでも、母が幼いころに作ってくれたビーズの指輪が、珠希に一つの道標を与えてくれた。
ジュエリーデザインは珠希の人生そのものだった。
母の指先からひとつひとつ丁寧にテグスに通されていった愛情が、思い出が、朧げに頭に浮かんでは消えていく。
――お母さん。
珠希は震える手でペンを取り、夢を切り捨てるように署名した。
「……さようなら。ありがとう、直人さん」
直人との結婚を感謝しているわけではない。
妊娠していたことも、その子を喪ったことも、彼に打ち明ける日は二度と来ない。けれど、ほんの僅かな間でも母親になれたこと――その一点だけは、子どものためにも嘘にしたくなかった。
直人は署名を確認し、はっ、と笑っただけだった。
+ + +
滞納していた三か月分の入金を確認したあと、珠希は記念病院を出た。
蝉の音がやまない酷暑の中で、ボストンバッグを一つ抱えて途方に暮れる。
文字通り、なにもかもを失ったような状況だった。
唯一守ることができたといえば、母のことだけだ。不思議と涙は出なかった。ただ気を抜けば、心にくりぬかれた穴に吸い込まれそうな感覚がした。
病院の正面玄関へ向かう途中、壁掛け時計の針が目に入った。
――十一時、大学近くのユイット珈琲で待っている。
時刻は既に十四時を回っていた。
雪臣との約束の時間はとうに過ぎている。謝罪をしようにも、彼の連絡先も知らない。
「…………」
珠希は記念病院のロータリーで、八十八番バスに乗り込んだ。
行き先は神本芸術大学前。雪臣に会いに行くわけではない。もう、彼はとっくに待ってはいないだろう。それでも行くあてのない珠希は、ユイット珈琲へ向かっていた。ジュエリーデザインを学び始めた原点に、もう一度戻ってみたかった。
+ + +
バスを降り、大学の裏手へ回る。小川沿いの小道に入ると、生い茂る緑のおかげで、空気が少しだけ涼しく感じられた。
ボストンバッグの紐を握り直し、ふっと息を吐く。
在学中から何も変わらない――丸い小窓が左右に並ぶ、愛嬌のある外観。『ユイット珈琲』と書かれたオレンジ色の庇が通りに淡い明るさを添え、古びた壁は静かな街角の空気に溶け込んでいた。
惹きつけられるようにドアノブへ手を伸ばすと、涼しげなカウベルの音が珠希を出迎えた。冷房の効いた店内へ足を踏み入れる。そして、数組の客の向こう。窓際の席で静かに珈琲を啜る男の姿に、鼓動がひとつ跳ね上がった。
――まさか、そんな。
そこにいたのは、まぎれもなく氷室雪臣だった。
「雪臣くん……」
雪臣は作業をしているわけでもなく、ただじっと珠希を見ていた。
彼はカップをソーサーに戻して静かに立ち上がると、杖を持たず、ぎこちない足取りで向かいの椅子を引こうとした。珠希は慌ててその腕を止めたが、彼は「これくらいはできる」と言って、席を用意する手を止めなかった。
「遅くなってごめんなさい。それに、今回はたくさん助けてくれてありがとう……」
雪臣が引いてくれた椅子へ腰かけた珠希。
そのとき店員に注文を聞かれ、蜂蜜入りのロイヤルミルクティーを頼んだ。
「懐かしい場所だね……雪臣くん。ずっと、待っていてくれたの?」
「ここで待っていると伝えたのは僕だ」
自分の席へ戻り、窓の外へ顔をそむけた雪臣は、つんとした表情を浮かべるだけだった。珠希が遅れた経緯を説明しても、雪臣は頬杖をついて、窓の外から目線を外すことはなかった。
――こんなに長い時間待ってまで、なんの用事があるのだろう。人生のほとんどを失った、こんな私なんかに。
二人の間に、しばらく沈黙が落ちた。食器の触れ合う音と、BGMに流れるアメイジング・グレイスだけが、静かな空間を満たしていた。
やがて、雪臣が静かに息を吸い、肩をわずかに上下させた。
次の瞬間、雪臣が差し出したのは、白いレザー調のリングケースだった。
そっと開かれたケースを見て、珠希は目を見開いた。
「……どういうこと?」
ケースの中の指輪を見た瞬間、珠希は息をのんだ。
石を支える爪の角度も、流れるように交差するアームも、見間違えるはずがない。それは、珠希自身がデザインした指輪だった。
ケースの内側に刻まれていたのは、雪臣が携わるHIMURO MOTOMACHIではなく、商売敵であるはずの「INUI Jewelry」の刻印だった。
「どうして、氷室家のあなたが――」
氷室家の御曹司である雪臣が、なぜINUI Jewelryの商品を持っているのか。それも、数ある指輪の中から、なぜ珠希がデザインしたものがここにあるのか。
湧き上がる疑問に眉を顰める珠希の前に、雪臣が二枚の紙を置いた。
雪臣は、まっすぐ珠希の目だけを見つめていた。
「僕と、結婚しませんか」
鉛筆を置き、絵にカバーを掛けた。ベッドに横になっても、とても眠れそうにはなかった。けれど、風邪で体力が落ちていたせいか、次に目を開けたときには窓の外が薄暗くなっていた。時計を見ると、半日近く眠っていたらしい。朝に比べて、体の重さはだいぶ引いていた。 ――タマは、どうしているだろう……。 目が覚めたのだから、話しに行かなければ。そう思いながらも、ベッドの縁に座ったまま動けずにいた。何を謝るべきかは分かっている。ただ、彼女がどんな顔で自分の話を聞くのかと考えると、二の足を踏んでしまう。 そうこうしているうちに、気の抜けるような腹の音がした。……昼も食べていない。何か少し、口にできるものはないだろうか。珠希と顔を合わせる前に、三板から何かもらえないか。そんな情けないことまで考えていた。 自室のドアを少し開ける。隙間から覗いても、二階に三板の姿はなかった。階下からは、煮物の匂いが漂ってくる。三板が何か作っているのだろうか。 匂いに誘われるように、杖を手に階下へ下りた。台所には明かりがついていた。そちらへ顔を向けると、鍋の蓋を持った珠希と目が合った。 「あ……」 雪臣は足を止めた。珠希も、そのままこちらを見ていた。 「……具合は、平気?」 「……ああ。その、なにか、食べたい」 「じゃ、用意する。これ、肉じゃがだけど、大丈夫?」 雪臣が頷くと、珠希が鍋に蓋を戻した。台所に三板の姿はなかった。雪臣が周囲へ目を向けると、彼女が続けた。 「三板さんは、さっき本邸へ行ったの」 掃除と下準備を済ませた三板に代わり、あとは珠希が引き受けたという。雪臣が起きたら、食事がとれそうか聞こうと思っていたらしい。 ダイニングの椅子に腰を下ろすと、コンロの前で鍋の火加減を調整する珠希の姿が見えた。 ……何も言わずに食べて戻るわけにはいかない。膝の上で、右手を握った。 「タマ……今朝は、申し訳なかった」 珠希が振り返る。 謝ればすぐに理解してもらえるなどとは思っていない。珠希は何も返さず、こちらを見ていた。雪臣は握った手を緩め、頭を下げた。 「きみを傷つけた」 顔を上げると
珠希がリビングへ戻ったあと、雪臣は昇降機に腰を下ろした。 左手の杖を持ち直し、右足の位置を整える。椅子がゆっくりと動き始めても、階段の前に立っていた珠希の顔は、頭から少しも離れなかった。 座ってしまえば、いつもと同じだった。これまでも、この椅子には何度も助けられている。風邪をひいているならなおさら、自力で階段を上るより楽なのは分かっていた。 ただ、好きな女性の前でどうしても座りたくなかった。 ――いい加減にしてくれ……! 自分の声を思い出す。あんな声を出すつもりではなかった。珠希を責めようなど、これっぽっちも思っていなかった。ただ、もうそこには触れないでほしくて、胸の痛みに耐えきれなかった。こちらを見たまま動かなくなった彼女に、『できることまで奪わないでほしい』とまで言った。 彼女は、雪臣から何かを奪おうとしたわけではない。きっと、今朝、温かい飲み物を差し出してくれたときと同じ気持ちだった。それなのに、あんな態度をとられて、彼女にはどう映っただろう。 嫌な思いをさせたに決まっている。 二階に着き、昇降機から立ち上がっても、すぐには足が進まなかった。 ――また我慢させてるのかなって、だから、怖かったの……。 珠希のあの言葉に、何も答えられなかった。 大きな声を出したことだけを謝り、それで終わりにしてしまった。彼女の頬に触れてしまったあの夜と同じだ。また、逃げたのだ。 自室に入り、扉を閉める。休むために上がってきたはずなのに、ベッドへ向かう気にはなれなかった。イーゼルの前で足を止め、掛けていたカバーを外した。 描きかけの珠希が、そこにいた。 椅子に腰を下ろし、杖を脇へ置く。イーゼルの隣の台から鉛筆を取り、まだ描き込んでいない服の袖に線を足した。手首の近くにできる布の皺を、一本ずつ重ねていく。 ……今朝も、珠希が隣にいてくれて嬉しかった。平日の夜は、帰宅しても長くは話せない。今日は何をしたのか。そんなことを聞いているうちに、もう休む時間になる。 でも今日は、一緒にいられると思っていた。 鉛筆が止まる。紙の中の珠希を見ていると、泣きそうな顔で膝掛けを胸元へ引き寄せた
― 11月の連載予定日 ―(曜日)月・火・木・金・土・日●21時37分(日本時間)頃●各1話ずつ更新されます。水曜日はお休みです。ぜひ、お楽しみくださると嬉しいです。花絵 ユウキ
休日の朝。雪臣が少し咳をしていた。 「雪臣くん、風邪かな」 「……少し、だるい」 「熱、測ってみる?」 体温計の数字は、三十七度を少し超えていた。朝食の量もいつもより少なく、食べ終えたあとも、彼はソファに背を預けたままだった。 三板が食材の買い出しに出かけると、珠希は台所で湯を沸かした。 「温かいの、飲めそう?」 「ああ。申し訳ない」 差し出した青いマグカップを、雪臣が両手で受け取る。いつもよりゆっくりと飲む彼を見ながら、珠希も隣に腰を下ろした。今日もニットの袖口から、左手のマリッジリングが覗いている。 珠希も自分のマグカップに両手を添えた。こんなふうに、何もせず一緒に過ごせるだけで、心地よいと思ってしまう。 けれど九月になれば、そんな時間も終わってしまうのだ。 だからこそ、今、雪臣の隣にいられるこの瞬間を大切にしたい。 今日は二人とも家にいる。平日のように、夜遅く帰ってきた彼とほんの少し顔を合わせるだけの日とは違う。具合が悪いのは心配だが、そばにいて、必要なものを用意するくらいはできる。 「何かあったら言って。今日はゆっくりしてようね」 雪臣はカップから顔を上げ、こくりと頷いた。それを見て、珠希は微笑んだ。昨日の洋食屋からの帰り道以来、また少し話しかけにくくなっていた。けれど今朝は、雪臣とときどき目が合った。 膝掛けを渡すと、雪臣はまた「申し訳ない」と言いながら、それを広げた。 雪臣のマグカップが空になれば受け取り、窓から日が差せば、眩しくないかと尋ねる。雪臣が咳をするたびに、珠希は読んでいた本から顔を上げた。 「タオルも、ここに置いておくね」 「……ああ」 彼の顔を覗き込む。視線が交わると、雪臣は何か言いかけたようだったが、そのまま黙ってタオルへ目を移した。まだつらいのだろうか……。もう少し早く、体調の変化に気づいてあげられたらよかった。 やがて、雪臣が膝掛けを畳んだ。 「もう、部屋で休む」 「うん。横になったほうがいいよ」 珠希は立ち上がり、膝掛けを受け取った。雪臣も杖をついて腰を上げる。彼が右足を踏
昼休みが近づいたころ、雪臣から連絡が来た。 ――仕事について少し話したい。昼、時間は取れるか。 珠希は画面を見つめた。昨夜、玄関で差し出した手を、彼は取らなかった。自分で家に上がれるのだから、手を借りる必要はなかったのだろう。そう思いながらも、引っ込めた指先の行き場がなかったことを覚えている。 このところ、二人の距離が少しずつ変わってきているような気がしてならなかった。二人は契約結婚で、雪臣に特別な気持ちがないことは理解している。それでも、婚姻届を出した日のことも、夜のソファで何気なく話す時間も、いつしか珠希にとって宝物のような記憶に変わっていった。 だからこそ、小さな変化が不安につながる。 「雪臣くん……」 けれど今日は、雪臣のほうから声をかけてくれた。返信しようとすると、もう一通届く。都合が悪ければ別の日でも構わない、とあった。珠希は慌てて『大丈夫』と返した。行き先は、以前二人で食事をした洋食屋に決まった。 + + + 店に入ると、ケチャップと炒めた玉ねぎの匂いがした。窓際の席へ向かい合って座る。雪臣はメニューを開いたまま、なかなか何も言わなかった。 「私、またナポリタンにしようかな。雪臣くんは?」 「……ああ。同じものを」 そういえば、前に来たときも、きっかけは雪臣が急にナポリタンを食べたいと言い出したからだ。思い出して笑うと、彼が顔を上げる。 「また一緒に来られて、良かった」 珠希の声は、後ろに流れるチャイコフスキーの花のワルツに溶けるように消えた。 そのとき、雪臣の唇がわずかに動いた。けれど声にはならず、やがて「ああ」と答えると、メニューへ視線を戻した。注文が済んでからも、雪臣はしばらくメニューを片づけず、ページをめくっては眺めていた。 珠希は水を一口だけ飲んだ。仕事の話だとわかっていても、忙しい彼が時間を作ってくれたことが嬉しかった。 「雪臣くん。それで、仕事の話って……」 「ああ。この前の手帳、持っているか」 「あ、うん。持ってるよ」 鞄から手帳を取って差し出すと、雪臣がようやくメニューを脇
珠希がまだ何か言いかけていたことに気づいていた。それでも、扉を閉めてしまった。 もう遅い。休んでほしかったのは本当だ。けれど、今の態度では、追い出したようなものだろう。もう一度扉を開けて声をかけようかとも考えたが、やはりいまは珠希と顔を合わせるのを躊躇った。 浴室には、湯気が薄く漂っている。洗い場の中央に、背もたれと肘掛けのついた椅子が置かれていた。 目を伏せ、そっとマリッジリングを外した。失くさないように、入浴中は洗面台の隅にある小皿で保管する。ちりん、と陶器の音が小さく鳴った。 ……会合の途中から、家に帰りたくて仕方がなかった。珠希に会いたかったのだ。 時計を確かめながら、彼女はもう眠っているだろうかと考えていた。 帰りのタクシーで連絡したときに、彼女がまだ起きていると分かって、少しでも話せることを期待した。 帰宅してすぐに、珠希は玄関まで出てきて、コートを受け取り、水まで用意してくれた。そのひとつひとつが嬉しかった。 それなのに、珠希に準備されていたこのシャワーチェアを見たとき、礼を言うことさえできなかった。 何も言えずに扉を閉め、脱衣所にひとり閉じこもったのだ。 雪臣は服を脱ぎ、浴室へ入って椅子に腰を下ろした。肘掛けに手を添え、右足の位置を整える。この椅子には、これまでも助けられてきたし、これがなければ自分で体を洗うことすらできないのは事実だ。 シャワーの音を聞くうちに、病室の白い天井を思い出していた。 ◇ ◇ ◇ ……まだ、小学校にすら通っていなかった、ずっと前のことだ。 氷室メディカルセンターのベッドの脇に置いていた画用紙を取ろうとして、上体を起こした。あと少し手を伸ばせば届く。その前に、様子を見に来ていた看護師が、画用紙を持ち上げた。 『これ? 取ってあげるね』 胸元へ置かれた画用紙を、両手で受け取った。 『これくらい自分で取れるよ』と言おうとしても、口から出てくる言葉は、いつも『ごめんなさい』だった。手間をかけさせてごめんなさい。長い入院生活の中、いつしかそう思うようになっていた。そんな雪臣を誰も責めなかったし、看護師は笑って、枕の位置まで







